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浦和地方裁判所 平成3年(わ)66号 判決 1993年2月26日

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決匂留日数中四〇日を右刑に算入する。

この裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予する。押収してある文化包丁(<押収番号略>)を没収する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、中学時代から強くあこがれて交際を続けていたAと、平成二年六月二九日に婚姻届を提出し、間もなく同人の両親の近所で生活を始めたものであるが、Aが自動車改造などに金を注ぎ込むため、その収入から生活費として使えるのは月額六万円くらいにすぎず、経済的には極めて貧しい生活を強いられていたものの、愛するAと共に生活できることに満足し、時折、被告人の実母から小遣いや食料品をもらうなどしてその生活をしのいでいた。

ところで、被告人は、同年一〇月ころから生理がなく、翌平成三年一月一三日ころには胎児が動く感じがしたため、同月一六日、Aに同行してもらい産婦人科病院で診察を受けたところ、妊娠一六週六日(五か月目)と診断された。その際、被告人は、胎児を撮影した超音波エコー写真を見せられたこともあって、愛するAの子を身籠ったことに喜びを感じ、出産したいという強い希望を持った。しかし、Aは、まだ遊びたいなどの理由から出産に反対で、出産するなら離婚するとまで被告人に対して申し向けた上、その母親も、被告人に対して強く中絶を迫ったためショックを受け、泣きながらアパートに戻り、実母や友人に出産したい旨を訴えた。そこで、翌一七日、被告人の実母らが、Aに対して説得を試みたところ、一旦は同人が出産を許したため被告人も安堵したものの、Aの両親から再び中絶を強く迫られてAも翻意し、一八日には、中絶手術を受けるためにAの母親に連れられて病院へ行かざるを得なくなった。しかし、どうしてもAの子供を出産したいという強い希望を有していた被告人は、医師の面前で中絶を求めて罵るAの母親の求めを拒否し、帰宅後、友人に電話を掛け、Aや義母に出産に強く反対されていることなどを話しているうちに、にわかに興蓄し「ホテルへ行って、寝ている時に包丁でAを刺して自分も死ぬ。」「親から一番大切なものをとってやる。」などと話し、その後近所の金物店に赴き、文化包丁一丁(刃体の長さ約16.7センチメートル、<押収番号略>)を購入し、これを寝室ベッドの下に隠すなどしておいた。しかし、被告人は、何としてもAの子を産みたいとの強い希望を捨てきれず、同日夜や翌一九日にAと共にホテルに宿泊した際に、更に続けては、二〇日にドライブに出かけた際にも、Aに対し、その考えを変えて欲しい旨泣きながら訴えた。その甲斐あってか、同人はその度に少し考えさせてくれと答えてくれたので、被告人は、出産が許され親子三人で暮らせるのではないかと期待し、二一日は、Aから期待どおりの返事がもらえるものと思い、同人の帰宅を待っていた。

(罪となるべき事実)

被告人は、平成三年一月二一日午後五時ころ、夫A(当時二一歳)の帰りを待つうち、同人が自分の希望をきいてくれるかどうか不安に駆られて、友人に電話で自らの思いを訴えるなどしていたが、同日午後五時三〇分ころ、Aが仕事から帰宅したため、右電話を一時保留にし、Aから出産を許し三人で暮らして行こうとの返事がなされるものと期待して、食事中の同人に対し「一緒にやってくれることになったの。」と尋ねたところ、「やっぱり駄目だ。親も駄目だと言っているし、俺もやりたいこともあるし、遊びたいから駄目だ。」「俺の気持ちは変わらない。冷蔵庫、タンス、テレビなどは置いていってやる。」などと冷たく言われ、一挙にその期待が裏切られたばかりか、はっきりと離婚を迫られて強い衝撃を受けた。そこで、被告人は、前記友人との電話を再開し、A殺害を匂わせたり、これを思い止まったりするようなとりとめのない会話を繰り返すうち、Aが入浴したことから寝室のベッドの下に隠しておいた前記文化包丁を取り出し、「やっぱりやるわ。今、包丁を持っている。」などと言った上、同日午後七時三〇分ころ、埼玉県川口市<番地略>○○○ハイツ二〇一号室の当時の被告人方において、浴室から出てきたAに対し、殺意をもって、同人の腹部を前記文化包丁で一回突き刺し、よって、同日午後一〇時五分ころ、東京都足立区<番地略>所在の博慈会記念病院において、腹部に刺入口をもつ腹部盲管刺創による腹部臓器損傷に伴う出血性ショックにより死亡させて殺害したが、被告人は本件犯行当時心因性意識障害のため心神耗弱の状態にあったものである。

(証拠の標目)<省略>

(争点に対する判断)

第一  争点の所在

被告人及び弁護人は、本件犯行についての殺意及びAを殺して自分も死ぬとの公訴事実における犯行動機を否認し、本件は自らの精神的支柱であった夫Aへの愛情と信頼が裏切られたことによる異常行動であるとし、また、その責任能力についても、犯行当時、被告人は病的心因反応により心神耗弱の状態にあったものと主張する。これに対し、検察官は、本件は、被告人の嫉妬深い性格から離婚か中絶かを迫られ思い悩んだ挙げ句に無理心中を図ろうとした計画的な犯行であって、殺意には何らの疑いはなく、また、責任能力については、その程度がかなり減弱した状態であることは否定できないものの、心神耗弱までには至っていないという。

従って、本件の争点は、殺意及び動機原因、そして、責任能力の程度の三点にあることになる。

第二  殺意について

一  直接証拠(被告人の自白調書の信用性)の検討

1 殺意に関する直接証拠としては、当裁判所が、第一〇回公判において、任意性に疑いのないものと認めて取り調べた、被告人の司法警察員に対する平成三年一月二一日付け供述調書(以下、「1.21員面」という。)が存在する。これは、殺意及び動機原因等についての被告人の自白を内容とするものであって、検察官の前記主張に副うものであるところ、弁護人はその信用性を争うので、まず、この点について検討する。

2  検察官は、右員面の自白内容は、被告人しか知り得ないと思われる心理状況等を具体的に述べるものであって、その信用性は高度であるという。

確かに、犯行動機や殺意に関する部分は、それが特異な場合には、被告人のみが知り得る事情であるとも考えられるが、右1.21員面の自白内容である、妊娠中の女性がその相手から離婚を迫られて無理心中を図るというような犯行動機は世上ままあり得ることであって、格別特異なことではなく、従って、その自白内容自体から高度の信用性を認めることは難しい。

3  しかも、右1.21員面には、次のような問題が認められる。

すなわち、被告人が婚姻した日は平成二年六月二九日であるのに、同員面では同月二八日となっていること、同じく妊娠に気づいて初めて病院に行った日が平成三年一月一六日であるのに、同月一八日となっていること、その際、妊娠五か月目と言われているのに、六か月目となっていること、被告人がAを刺した場所は、風呂場の前であり、そこから居間は見通せないにもかかわかず、被告人は居間の炬燵のところで風呂を上がってきたAと目が合って殺意を生じた旨の記載があること、その刺創の深さからして包丁の刃体部分の殆どがAの身体に刺さったとみられるのに、その半分くらいしか刺さらなかったと述べていること、更に、被告人は、犯行直前まで友人と電話のやりとりをしていたにもかかわらず、そのことが何ら記載されていないこと、また、使用した包丁は寝室に隠していたと認められるのに、台所のまな板の上に出し放しになっていたとされていることなど、事実と異なる記載が数多く認められるのである。このように間違える筈のない事実を間違えて供述したり、当然話すべき事柄を言い落としたりした主たる原因は、後述するとおり、被告人が、その直前の本件犯行時において心神耗弱と認められるほどに、精神的に混乱していたとの影響を指摘し得るであろう。被告人は、取調べ警察官も認めるとおり、口が重く、問われたことに対して、直ちに的確な応答ができるタイプの人物ではなく、鑑定書によると、知能指数五五、精神年齢九歳一〇か月で、「精神遅滞」と判定されているのである。その上、当時、被告人は、妊娠五か月目であり、特に当夜は夫の腹部を文化包丁で突き刺すという重大犯罪を犯してかなり動揺していたと考えられ、従って、その犯行直後の取調べにおいて、的確に自らの心情を供述し得たかには大いに疑問が残り、前記のような供述の誤り等も、その当時の被告人の精神的混乱を端的に示すものというべきである。

また、川口警察署では、当夜は、被告人の友人であり、犯行当時まで被告人と電話で会話していたBを、被告人の取調べとほぼ平行して、参考人として取り調べていたのであって、被告人の取調官であった同署司法警察員今泉忍巡査部長は、その供述内容を知り得る機会があったと考えられること、及び、同巡査部長は、犯行当日、緊急連絡により、自ら現場である当時の被告人方に駆けつけ、現場保存及び写真撮影を行った者であることなどの事情からすると、右1.21員面の内容中には、今泉巡査部長が現場保存や採証の過程等で知り得た情報に基づき、前記のとおり、無口で的確な応答の難しい被告人を理詰めで追及(平成四年一月一六日付け証拠決定三1参照)ないし誘導して得られた供述をもとに作成された部分も混在していると考えられる。

以上の諸点を併せれば、前記1.21員面中の動機や殺意についての記載の信用性には多分に疑問を容れる余地が残るというべきである。

4 従って、その証拠価値が乏しいとみられる1.21員面を基礎に殺意や動機原因等を認定することは相当でない。

二  間接事実の検討

1  次に、証拠上確実に認定できる客観的事実から殺意を推認することができるかにつき検討する。

2  まず、犯行態様についてみてみると、被告人は、殺傷能力が十分と認められる刃体の長さ約16.7センチメートルの文化包丁の刃体の殆どを、Aの身体の枢要部である腹部中心に対して突き刺したものであって、かかる客観的事情は、被告人の殺意を有力に推認させるものと考えられる。

もっとも、他方において、その刺突回数が一回に止まり、しかも、その直後に被告人自身が一一九番通報していることは、右によって推認される殺意の程度が、それほど強固なものではなかったことを窺わせるものと考えられる。検察官は、Aの左手に本件包丁で生じたとみられる傷があることに注目し、これを防禦創とみて、防禦を受けながらも、約一二センチメートルに及ぶ刺創を与えるほどに強力に刺突したものであり、その殺意は強固なものというが、本件の刺突部位が腹部というかなり柔らかい箇所であり、思いのほか深い刺創が生ずることもあり得ることからすると、刺創の深さが決定的な意味を持つということはできない。また、Aの左手の傷についても、これが防禦創と認めるに足りる確実な証拠はなく、検察官の右主張はにわかに認め難い。

従って、犯行態様自体から推認される殺意の程度は、さほど強いものではないと認めるのが相当である。

3  そこで次に、犯行前の情況から、いかなる犯行動機ないし殺意が推認し得るかについて検討する。

(一)  検察官は、犯行の二、三日前に被告人が本件包丁を購入したことや、一月一六日、一八日及び犯行当日の二一日のBとの電話の際に、被告人が中絶か離婚かを迫られて思い悩んでいることを訴え、特に、一八日の会話の中では、「どうしても生んではだめと言うので、次の日は仕事が休みだから二人でラブホテルへ行って寝ているときにAを殺して自分も死ぬ。」「Aの親から一番大切なものを取ってやる。」「出刃包丁を買う。」などと言ったことを取り上げ、これらは、心に秘めた事前の犯行計画を吐露するものであるという。また、犯行当日の電話の中でも、Aの帰宅前に、「Aが子供を生むなら別れると言って全然賛成してくれない。Aが自分以外の人と結婚したら嫌だから別れない。あんな男をこの世にのさばらせておくのは許せないので殺す。」などと言い、同人の入浴後に、「やっぱりやるわ。今包丁を持っている。刃が光っている。」「やるときには受話器を投げるから。」「風呂から上がってきたらやる。血の循環がよくなっているから。」などとそれぞれ申し向けた上で本件犯行に及んだことからみて、被告人が無理心中を企て、A殺害を決意していたことは疑いのないところである主張する。

(二)  確かに、検察官の指摘のとおり、被告人がBに対して発した一連の言動を表面的にみる限りにおいては、そこには無理心中の企てと確定的殺意が読み取れないではない。しかしながら、被告人は、一六日に妊娠を知った際に即座にAに出産に反対されたものの、その翌日には実母らの説得により一度はこれを許されたことがあり、しかも、その後、Aは一貫して明確に出産に反対していたわけではなく、被告人の再三の訴えに対して、二度にわたり、「少し考えさせて欲しい」旨その態度を変えており、被告人もAのその言葉に望みをつないでいた様子が窺えるのであって、現に、被告人は、一八日にBに対し、すぐにでもホテルでAと無理心中を図るかのように言いながら、同日夜から二一日までの間は、その言葉とは裏腹に、A殺害を実行するどころか、同人の説得に全力を注いでいるのである。また、買った包丁についても、わざわざこれをAに発見されやすいベッドの下に隠し、包丁の空き箱も日常使用しているタンスの引き出しに入れるなどしており、犯行当日に実母が被告人方を訪れた際にも、被告人は、「今日はいい話が聞ける日だから。」などと声を弾ませていたのである。また、被告人から電話を受けたBは被告人の友人であって、Aが出産に反対していることを聞いて、電話でAに出産を認めてやるように促したこともある人物であり、加えて、同女がその当時交際していたCは、Aの実家であり、かつ、A自身も勤める甲野塗装店の同僚であったのである(同女が被告人の妊娠を知ったのは、Cからの連絡によるものである。)。これらの諸事情をもとにして考えると、Aから最終的な返事を聞くまでの間における被告人の前記一連の言動は、思いがけなく中絶や離婚を求められたことによって生じた一時の激情に駆られてのものであって、その真意に出たものとは思われず、包丁の購入も、自らの出産への固い決意を示して何とかAの翻意を促したいとの願いに基づくものとも解される。そして、被告人は、当時唯一の友人であったBと話をすることで、不安と期待との間で揺れ動く自らの心情を訴え、その精神的な救いを求めると同時に、BからCを通じてのAに対する説得を願っていたものとも考えることができ、そうすると、いずれにせよ前記一連の言動が直ちにA殺害の計画性ないし確定的殺意を推認させるものとは到底考えられない。

(三)  しかしながら、他方、犯行直前に至り、最終的にAから離婚を宣言されてしまった後の被告人の言動には、直接殺意を推認させるものがあるといわなければならない。すなわち、被告人は、Aから判示のとおり、「やっぱり駄目だ。」「冷蔵庫、タンス、テレビなどは置いていってやる。」などと最後通告を突きつけられ、もはや三人で暮らすという自分の願いはかなわぬことに確定し、窮地に追い込まれたこと、「やっぱりやるわ。」「やるときには受話器を投げるから。」「風呂から上がってきたらやる。血の循環がよくなっているから。」などと、より具体的な実行の決意をBに対して述べ、現実にも受話器を投げつけたのちにAに対する刺突行為に及んでいること、しかも、被告人は包丁を右手に持った状態で自らAに接近し、これを風呂上がりの無防備な態勢にある同人の腹部に突き刺したものであって、その際には、何ら声をかけることもなかったことなどは、いずれも被告人の殺意を推認させるものというべきであり、これに前記2の犯行態様自体から推認される殺意を併せ考察すると、被告人の確定的殺意はこれを認定することができると考える。

これに対し、弁護人は、被告人は、直ちにAに対する刺突行為に及んではおらず、暫くその場に立っていたり受話器を投げたりしたことは、Aの翻意を促すためであって、前記犯行直前における殺害予告の言動も含め、これは殺意を推認させるものではないというが、受話器を投げるという行動は、Bとの電話の際には、まさにAを殺害する際の合図として被告人自らが告げたものであって、そこからは犯行の決意が窺われるというべきである。また、もし弁護人のいうとおり、自己の意図を察知させ、最終的にも翻意を促すためであるならば、刺突行為に及ぶ前にAの名前を呼ぶなどそのための何らかの言動があってしかるべきものと考えられるところ、被告人は、全くそのような行動には出ていない。むしろ、包丁を持った状態で自らAに接近している行動は、弁護人の主張とは逆に、Aに対する攻撃的意思が存在したことを前提としなければ理解し難い。しかも、Bに対するA殺害の予告は、前示のとおり、極めて具体的であって殺意を窺うに十分であり、かつ、最終的にAから離婚を申し渡された以上、もはやBへの電話によって、Aに翻意を求めることは不可能になっていたものであって、従って、弁護人の右主張は、殺意の認定問題に関してはその理由がないこととなる。

4 そこで、最後に動機についてみてみるに、検察官は、被告人がかつてAに対して「浮気したら殺す」と言ったり、友人らに対しても「Aが浮気したら殺して、自分も死ぬ」などと言っていたことをもって、被告人は嫉妬深い性格であり、そのため、離婚か中絶かの二者択一を迫られ、どうしても出産したいとの希望を被告人が抱いたことから、離婚という事態に陥るよりは、無理心中をしようと企てたものともいう。

しかしながら、検察官が指摘する被告人の従前の言動は、いずれも平成二年一一月ころのものであり、被告人が妊娠を覚知した時期より相当期間前で、しかも、妊娠・出産問題とは全く無関係になされたものであるから、本件の動機を推認させる事情とは考えにくい。また、無理心中であるとの点も、これを支える被告人の自白調書や、事前の犯意を吐露したかのようにも見える被告人のBに対する各言辞には、前記のとおり、十分な証拠価値が認められない以上、少なくとも証拠上、そのように断定するに十分なものは存在しないことになる。これに、犯行当時、被告人には無理心中の他にAに対する憎しみ、またその家族への恨み等も存在していたこと、心神耗弱と認められるほどに精神的混乱の中にあったことなどを併せると、本件の動機原因として、唯一特定のものを認定することは困難というべきである。

もっとも、右のように動機を特定し難いことは、後述のとおり、被告人の責任能力に対する判断に影響を及ぼす一つの事情とはなり得るが、それをもって、直ちに前記のとおりの客観的事情から推認される殺意を動揺させるところまでは作用しないものと考えられる。

5 総合的検討

右にみてきたところを総合すると、犯行当日にAから出産問題に関する最終的な返事を聞くまでの間における客観的事実は、いずれも被告人の殺意を推認させるには十分なものとは言えず、かつまた、その動機も明らかではないものの、右最終的返事を聞いたのちの被告人の言動及び客観的行動等に照らすと、被告人のAに対する殺意は、これを認定することができるというべきであり、それは、確定的殺意(但し、刺突回数及び犯行後の事情に鑑み、その程度はかなり弱いもの)とみられる。

三  結論

以上の次第で、当裁判所は、検察官が主張するような明確な動機原因は認定することはできないものの、犯行直前における被告人の殺意については、なおこれを認定することができると考えるものである。

第三  責任能力について

一 鑑定人児玉隆治作成の精神鑑定書及び同人の公判供述(以下、「児玉鑑定」という。)によれば、被告人の精神状態につき、「被告人は軽度と中等度の中間に位置する精神遅滞であ」ること、「犯行時は葛藤反応による不安・困惑・抑うつ状態に、さらに意識変容がともなってい」たこと、「その意識変容の程度は、ごく軽度の段階で明識困難状態であ」るが、「自我機能の脆弱性をもつ精神遅滞者の意識変容は自己の制御機能をさらに低下させるから、以上の精神状態は心神耗弱に相当する」と結論づけている。

二 ところで、関係証拠を総合すると、以下の事実が認められる。

1  被告人は、犯行当時、一般的には安定期とされている妊娠五か月の身重の身体であったが、妊娠の事実自体をその当時まで知らず、これを知った直後から、Aやその実母らから、離婚か中絶かという被告人にとってはおよそ不可能な選択を迫られていたものであって、精神的動揺が極めて激しい状態におかれていたこと

2  被告人の小・中学校時代の学業成績は極めて不振であり、現在でもその知能程度は、精神年齢九歳一〇か月で知能指数五五、軽度から中等度の中間に位置する精神遅滞であり、従って、その精神活動も未成熟であり、かつまた、その成育歴からみて、内向的性格が強く、悩みや精神的葛藤を自ら適切に解消できるような能力に恵まれなかったこと

3  被告人は、幼いころから虚弱体質で、犯行当時は右のような精神的葛藤の影響で、不眠、食欲不振等の身体的症状が現れていたこと

4  被告人は、犯行当日、Aから最終的な返事を聞くまでの間にBと電話で話したことやその内容を追想することは可能であるが、返事を聞いて強い衝撃を受けたのちは、もはや同人との会話内容に関する記憶は脱失しており、犯行直後の取調べを終えた後に病院で診察を受けたことすら全く記憶していないこと

5  被告人は、Aの最終的な返事を聞いたのちにBとの電話を再開しているが、同女は、その際の被告人の話は「どうしよう」と繰り返すばかりでまとまりがなく、声も大きくなったり低くなったり支離滅裂で、何を言いたいのかを理解できなかったこと

6  被告人は、Bとの右電話の中で、「やっぱりやるわ。今、包丁を持っている。刃が光っている。」「やるときには受話器を投げるから。」「風呂から上がってきたらやる。血の循環がよくなっているから。」などと、より具体的な実行の決意をBに対して述べているが、殺人の実行行為を他人に予告するなどということは、それ自体が異常であると考えられるのみならず、平素の被告人の人格とは相容れないものがあること。しかも、その電話を犯行直前から着手するまで継続させていたこともまた、通常の理解からはかけ離れた行動と言わなければならず、これらの事実は、もはや被告人の状況判断能力が極めて希薄になっていたことを窺わせること

三 以上の諸事実に鑑みると、被告人は、犯行当時、極めて強度の精神的葛藤を内面に包蔵させながら、これを打開する能力を欠いたために、Aに突きつけられた離婚の宣告に激しい衝撃を受け、混沌とした精神状態に陥っていたものと理解される。

そして、そのような精神状態に関する前記児玉鑑定は、被告人に対する度重なる問診のほか、知能テスト、心理テスト、脳波検査等を駆使して医学的見地から慎重かつ総合的に検討してなされたものであって、その診断手法に問題は見当たらず、かつ、鑑定理由も右各事実に照らし、相当なものとして是認でき、これを採用すべきものと考えられる。

四 これに対して、検察官は、右鑑定中、被告人の性格像、身体的所見及び犯行当時の精神状態に関する診断は、被告人に対する問診結果を過大に評価しており、関係証拠と矛盾しているなどとして右鑑定の信用性に疑いがある旨主張する。

確かに、児玉鑑定は、被告人の身体症状につき、「即日に不眠、胃痛、食欲不振、下痢の身体症状が出現し」「夫の曖昧な態度は混迷と不安、(出産の願望は離婚へ、婚姻継続の願いは堕胎へと強要される二律背反の状況)を深め、心身症状は増悪し、ほとんど一睡も出来ない状態へと悪化している。」と診断している。右は被告人に対する問診結果をもとに診断したものと考えられ、やや重い身体症状を認定している感がないではない。しかしながら、被告人が、不眠、食欲不振等に陥っていたことは証拠上(被告人の司法警察員に対する平成三年一月二一日付け供述調書・「ろくに食事もノドを通らず苦しんで悩んでいるのに」、同月二二日付け・「(パン)一個を食べるつもりでしたが、食欲がわかず半分しか食べられませんでした」、同月二九日付け・「(一六日の夜は)あまりにもショックだったので、寝る気にもなれず、どうしようかと考えていると朝になってしまいました」、「同年二月四日付け・「(匂留中の)昨日は、夕食を食べるともどしたりしました」、同年一月二九日付け実況見分調書・被告人の食事は殆ど手がつけられていない、検察官に対する同年二月一日付け供述調書・「(一八日は)多分午前一時ころベッドに入りましたが、午前三時ころまで眠れず、こんなことを繰り返して考えておりました」)も明らかなところである。また、検察官は、犯行当夜に被告人を診察した佐藤泰三医師が、被告人の身体症状に異常を認めていないともいう。しかし、同医師は、あくまで逮捕後の留置に耐えられるかどうかを限られた時間の中で診察したものにすぎず(通常の妊婦検診)、十分に時間を割いて精神鑑定の目的でなされたものとは質的に大きく異なるといわなければならず、初診時における長江医師についても同様であって、警察官の右指摘は、児玉鑑定の信用性を弾劾するに十分なものとはいえない。

また、被告人の性格像については、捜査段階における関係人の供述調書から認められるところと矛盾するものを鑑定の基礎資料としているというが、被告人の知的能力を考えるとき、被告人が自らの意図するところを友人らに対して正しく伝達し得ていたかどうか疑問とする余地があると同時に、児玉鑑定もこの点を十分に斟酌し、被告人の理解協力者への依存願望が執着的となる側面が、友人達には「わがまま」「短気」「嫉妬深い」などと映るのかもしれないとし(被告人自身、司法警察員に対する平成三年一月三一日付け供述調書中で、自分は冗談半分で物事を大袈裟に言う癖があり、誤解があり得ることを認めている)また、被告人の曖昧な対人様式が、相手に誤解を与えやすいものであり、できるだけ抽象的な言語を避けないと被告人の真意は掴めないことになるともしている。従って、児玉鑑定における被告人の性格像の把握は、問診結果のみを過大に評価したものではなく、関係証拠との整合性を十分に検討し、慎重になされたものと考えられる。

更に、犯行当時の精神状態の診断部分に対する警察官の反論は、既に前記三で検討したところから明らかなように、いずれも児玉鑑定の信用性を動揺させるに足りるものではない。

五  以上のとおり、被告人は、本件犯行直前において、心因性意識障害に基づき、是非善悪を弁別する能力及びその弁別に従って行動する能力が著しく減弱した状態、すなわち、心神耗弱の状態にあったものと考える。

(法令の適用)

被告人の判示事実は刑法一九九条に該当するので、所定刑中有期懲役刑を選択し、右は心神耗弱者の行為であるから同法三九条二項、六八条三号により法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決匂留日数中四〇日を右刑に算入し、情状により同法二五条一項を適用しこの裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予する。なお、押収してある文化包丁一丁(<押収番号略>)は判示犯行の用に供した物で犯人である被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項本文を適用してこれを没収し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用してこれを被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は、被告人が夫の腹部を文化包丁で突き刺し殺害したという事案であって、被告人は、貴重な生命を奪ったというだけに止まらず、事情はともかく、自らの子供の父親を殺害したことには変わりはないのであるから、本件がもたらした結果はまことに重大である。のみならず、被害者は弱冠二一歳の若い生命を妻に奪われてしまったものであり、その無念さを考えると、被告人の責任は重いといわなければならない。また、被害者は甲野家の一人息子(但し、いわゆる藁の上からの養子)であり、同人を家業の後継者として期待していた両親の悲しみは極めて深いものと考えられ、以上によれば、被告人を相当期間実刑に付することも理由がないわけではない。

しかしながら、本件犯行に至る経緯を見てみるに、被告人は、幼少期に父親の暴力を原因とする父母の別居に遭い。一日中鍵のかけられた部屋の中で母親を持つ生活を強いられ、小学校半ばからは勉強の意欲も失い、自体の虚弱なこともあり、成績は最下位となって、友人もできないままに成長してきたのである。そのため、思いがけなくAの愛情を得て夫婦となることができたことは、被告人にとっても望外の幸せであったと認められ(被告人は、Aと一緒にいられればおなかが空いても耐えられると述べている――Dの司法巡査に対する供述調書)、従って、愛する夫の子供を産み、幸せな家庭を作りたいとの被告人の願いは、単なる母性の発露というに止まらず、被告人の心底からの願いであり望みであったと考えられる。にもかかわらず、その両親を含む被害者側が被告人に対し、堕胎しなければ離婚だなどと執拗に責めたて、挙げ句には、被告人の意思を無視して、堕胎手術を受けさせるために産婦人科まで連れて行き、医師の面前で被告人を罵倒し、Aもまた妊娠を避ける方法をとらないまま、単にもっと遊びたい、金がない、あるいは、両親が反対するからといった自分勝手で、かつ、主体性のない態度をもって、被告人を追い詰めたため、子供にも夫にも強い愛情を抱いていた被告人に不可能な選択を強いることになり、そのことが本件の原因となっているものであって、そこには、被害者側に本件犯行を誘発したといい得る極めて重大な落ち度を認めざるを得ない。そのためか、被害者の両親も被告人に対し、厳しい処分を望んでいない状況にあるのであって、このことは、本件において量刑上重視せざるを得ない。また、本件によってもたらされた前記のとおりの悲惨な結果は、決して被告人自らが望んだものではなく、むしろ、家庭内において孤立し、孤独のままで思い悩んでいた被告人が、揺れ動く夫の気持ちと共に自らの気持ちも動揺し、その結果、能力的制約もあって、解決の糸口がつかめないままに夫の離婚宣告を受け、その衝撃のあまりに自らを見失ってまったことから発生したという側面が存在しているのであって、その間必死に出産の許しを得ようとした被告人の姿には同情を禁じえないものがある。してみると、本件について、被告人のみを強く非難するのは相当ではないと思われる。

しかも、これに、被告人は、犯行当時心神耗弱の状態にあり、その責任非難自体を強く向けることはできないこと、また、被告人は、犯行直後、我に返って救急車の手配をし、臨場した警察官にその犯行を自供しており、実質的に自首したのと変わらないこと、その後、本件を反省し、亡きAの冥福を心から祈っていること、その成育歴は決して恵まれたものとはいえないにもかかわらず、これまでに前科前歴が全くないこと、そして、被告人に対し、仮に厳しい刑を科するとなれば、残された幼い子供(平成三年六月三〇日生、現在一歳八か月)を養育してゆく人物が存在しないこととなり、子供の将来に対する不測の悪影響が懸念されることなどの事情を斟酌すると、被告人に対して今直ぐに実刑を科すことには躊躇せざるを得ないところがあるのであって、よって、この際は、被告人に対し、社会内における更生の機会を与えるとともに、子供の養育監護の責任を全うさせるべく、主文記載の刑を量定したものである(求刑 懲役六年)。

(裁判長裁判官須藤繁 裁判官大島哲雄 裁判官藤田広美)

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